いくらコンテナ

小学生のASD(知的の遅れなし)の息子とADHD母との備忘録。怒らない育児に忍耐を強いられるものの、度々決壊してはホワホワ無害系の息子に絆されて怒る気を失くす毎日を綴ります。

息子誕生

息子が三歳半を過ぎてようやく育児日記だけでなくブログの記事にする気力が出たので、ポツリポツリと更新していこうと思う。

 

初産

息子は、私が36の時に授かった初めての子だった。

結婚も出産もさっぱり諦めた時期にひょっこり夫と出会い、何の苦労もなく授かった所謂デキ婚というやつだ。

完全なる高齢出産で、正にこれから体力が右肩下がりになるようなお年頃。

初めに掛かった個人経営の産婦人科医による独断での断薬指示で、つわりと薬の離脱症状が同時にやってくるなど、妊娠初期には色々あったが経過は良好で、妊娠9ヶ月くらいまでは順調に体重も制御していた。

が、仕事を辞めてしまってからは一転。毎週1kgずつ増えていくような悲惨な状態に。

転院した先の大学病院の産科医も「難産になるよ」と呆れ顔だったが、案の定の難産で14時間の陣痛に耐えた。

 

陣痛は、2014年12月26日の深夜22時あたりからじんわりと始まった。

初産で前例がないため、10分置きにやってくる差し込むような痛みはまだまだ我慢できるものの、ただただ恐ろしく、確か2~3回病院に電話するような状態だった。

義母や親姉妹が近くにいれば、その場で色々と教えてもらえたのかもしれないが、なんせ横にいるのは夫だけだったもので不安しかなく、一刻も早く病院に行きたかった。

病院に到着したのは日付を越えた27日の0時過ぎ。

張りも微弱ながら10分刻みだったこともあってか、そのまま入院となった。

 

が、その日は昼寝もせずかなりの距離をお散歩したせいか、時間が進むにつれてどんどん眠気が増し、それに伴って体力が低下していった。

あまりの眠さに陣痛の合間に寝るもんで、眠い→寝る→痛い!→眠い→寝る→痛い!の繰り返し。

所謂、微弱陣痛というやつだ。

おそらくは、私の眠気と体力不足によるやる気の無さも原因の一つであろう。

そんな私を見て、先生も呆れて「赤ちゃんが危ないし」と促進剤を点滴。

(後述するが入院決定後すぐに破水していたのに助産師にスルーされたため、いつでも促進剤を打って産むべき状態だった)

五分も経たないうちに子宮口が全開になったのだが、これがまぁ痛いのなんの。

これまでも痛かったのに、痛みで身体が跳ね上がるような痛さ。

それでなくともじっとしていられないほど痛いのに、ここで助産師さんによる内診が行われる。

経産婦さんならご存じだろうが、膣に指を入れて触診するのだ。これがまた乱暴でかなりの苦痛を伴う。

 

子宮口全開を確認した助産師さんにそうかさぁ動けそれ動け分娩室だと急かされ、痛い痛いと泣き言をのたまう隙も与えて貰えずせかせかと移動。

(このあたりはぼんやりとしか覚えておらず、ほぼ夫からの情報)

そしてようやくやって来た分娩台。

ここで産みさえすればこの痛みから開放されるのねと思ったのも束の間。

 

助産師さん「はい乗って〜!!!!!」

 

私の腰より上の高さの分娩台に乗れと言う。

そんな無茶な、という気持ちを声に出すこともできないほど憔悴していた私だったが、恐らく表情には出ていただろう。

「早く! 早くしなさい!」

それを察してか、いいから乗れと助産師さんは怒る。

30もとうに過ぎた女があんなに叱られることもそうなかろう。

そらあっちだって乗るか乗らんかで産み落とされても困るんだし、あの剣幕で怒るのも仕方ないが、あの状況で叱られるとちょっと凹む。

あちらも仕事だから、そんなことに情なんて掛けてられないのは百も承知だが、あまりにあんまりじゃないか。

もっと……優しくしてよ!(´;ω;`) ※いい大人です

 

そんな私の思いを知ってか知らずか、ヒーヒーフーフーと大きな腹を抱えてよじ登るように分娩台乗るも、当然のことながら労いの言葉などない。

ましてやちょっとゆっくり、なんてさせてもらえるはずもない。

どうやら劣等生らしくメチャクチャ怒られる。

もう少し下に移動しろ、足をここに乗せろ、股を開け、息を吐け腹に力を入れるな、それ今だいきめ、目をつぶるな、息止めてんじゃねぇ、息を吐け、もっと力め、舐めてんのか気合いが足りねぇとばかりに怒る。

それでも必死に頑張るものの、全然いきみが、足りないと、おっしゃるんですよ。

助産師さんも開始早々こいつ下手くそだなと思っているに違いないが、上手いとはいかに状態の私に力不足を改善できるはずもない。

「赤ちゃんだって苦しいんだよ!」

「もっと頑張りなさーい!」

「もっと力んでー!!!!!!!」

「息は止めないで!!!!!!!」

 

叱咤激励というより、どんじりにいる駄馬に最初から最後まで鞭を打っているような状況が正しいと思う。

助産師さんのええいもうしっかりしてよという心の声が聞こえるようだ。

 

「あー!◯◯さん!!! ここ踏んで!!! いきんでーーーーーー!!!」

埒があかんと思っただろう助産師さん、今度はこれまで膝の裏を乗せていたところを今度は足の裏で踏めと言う。

(要は寝転んだ状態でのウンチングスタイル)

死んだカエルがひっくり返ったようなスタイルで分娩を強いられる私。

この姿をもし撮影されでもしたら、私はその場で首を掻き切って死ぬだろう。

実際には陣痛にもがき苦しんでいるのでされるがままだが。

 

それでもいきみが足りなかったらしく、助産師から「◯◯さん! 出てこないから吸引分娩にするよ!」と声を掛けられ、返事をする間もなくバスンッという音が聞こえた。

それがまぁ痛ってぇのなんの(二回目)

(後日談だが、夫によるとこのバスンッという音と共に血飛沫が上がったらしい)

見える部分が刃物でスパッと切れて後から痛みが湧くようなものと違った痛みで、血液がそこに集まるような感覚と共に、火が点いたような熱さと降って湧いた痛みが走った。

 

あまりの痛みに「いっったーーい‼‼‼‼」と叫んだ覚えがある。

 

それからすぐに先生が機械を取り出したという。

(夫曰く、まるでバック・トゥ・ザ・フューチャーにでも出てきそうだったらしい)

そのあたりは微塵も記憶にないが、先生がそのメカでカッポ〜ンと音を鳴らしたことを鮮明に覚えている。

正確には鳴らした、ではなく赤子の頭にくっつけた吸盤が外れた音だが、それがなんとも場にそぐわぬ音で、間が抜けているというかなんというか。

息を呑むようなシーンで鹿威しが鳴り響くような、能や歌舞伎の鼓の掛け声のような、我々が過ごしている日常では流れない突拍子もない音なのだ。

平常時なら腹を抱えて笑ってるところだが、この時ばかりはなんとも言えぬ焦りが湧いた。

自分の股ぐらにある恐らく赤ちゃんの頭に吸盤をくっつけて、体格の良い成人男性が外れた反動で後ろによろめくのだから、「これを続ければ赤ちゃんに悪影響を及ぼすのでは」という考えがスッと湧いて、これはヤバイ頑張らねばとこれまでの〈早く終わらせたい〉という後ろ向きな姿勢をやる気にスイッチさせた。

 

 

しかし、この期に及んでも私という人間はまだ助産師さんに怒られるのだ。

いきめいきめ、目を閉じるな、息は止めるな、息は吐けと怒鳴る怒鳴る。

いや実際、この場で怒鳴らないと逃げの体制に入る人も多いからこうなんだと思いますよ。特に私のような人間は。見抜かれてたからこそ怒鳴るんでしょう。

でももっと優しくして。本当に。

 

で、先生が二回目のメカでカッポ〜ンをやったあたりでもう一人先生が登場。

 よいせと私の腹に乗る。

ええっ!? そこ乗るの!? 私は思った。私の頭側にいた夫も思った。

出ないと押し出すとは聞いてはいたが、両手で押すとかそういうレベルではないんですよこれが。

片膝を立てて腹に飛び乗るんですよ。何度も。激しく。

妊娠中あれほどみんなに優しく撫でて過ごし、筋腫があるから妊娠中無理をするなと産科医に言い続けられ迎えたお産で、産科医が腹に飛び乗るんですよ。

股ぐらで赤子に吸盤くっつけて引っ張る産科医、妊婦に怒鳴る助産師が二人、赤子引っ張るタイミングで腹に飛び乗るもうひとりの産科医。

まるで私を囲んでお祭りしてるみたいだったな……。

 

結局、メカカッポン四回で息子が誕生したわけだけれど、その喜びより、出た、終わった、ようやく寝れるという気持ちだった。

達成感とかではなくて、あれは多分カタルシスに近い。

それと、私はそこそこに頭がお花畑の妊婦で夫にべた惚れだったので、ずっと付き添ってくれた夫と乗り越えられたわぁ~キラキラキラという気持ちとで生まれた赤子そっちのけの部分てんこもりで、今思い返せば息子に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

その後、胎盤出したり、陰部を縫合したがこれが相当痛くてそこそこに修羅場だったが、先が見えてるのでお産の苦痛に比べればどうということはなかった。

 

それから縫合の前だったか、後だったか。

産まれてすぐ産声も上げない息子を、ぼんやりと眺めていた記憶がある。

疲れて働かない頭と消耗しきった重だるい身体を分娩台に横たわらせて、なんで泣かないのかなぁ、大丈夫かなぁ、誰も何も言わないなぁとか、そんなことを考えていたように思う。

ように思うというのも今思えばだが、出産というのが壮絶すぎて頭が現実逃避した状態になったのだろう。そのため、お産が終わってしまってからも離人感が残ったのではないだろうか。

助産師さんに吸引器でお掃除してもらってようやく、ホギャアホギャアと弱々しく泣き出したのだが、それすらもあーなんか泣いたわーと感動を抱くでもなく、関心のないテレビをボーッと眺めているような心境でなんの感動もなかった覚えがある。

後から母子手帳見て分かったことだが、あれが新生児仮死というものらしい。

へその緒も首に二重に巻き付いてたらしく、息子は本当に危なかったようだ。

 

人間は他の哺乳動物の発育状態に比べて、約1年早く産まれるらしいが、

参考記事:ヒトの「生理的早産」 (助産婦雑誌 51巻5号) | 医書.jp

それならそれで、生まれてすぐから母性をバンバン湧かせてしっかり子を守るべきなのだが、実際にはそう上手くはいかないらしい。

産後ハイの異様なテンションで子供のお世話より私の話を聞いて状態になる人もいれば、マタニティブルーから産後鬱まっしぐらの人もいるし、それこそ私のように抜け殻になったりするので、人間は集団で生活しなければどうにもならないような不完全な生態なのだろう。

しかし、壮絶なお産を乗り越えるためとはいえ、子供が産後すぐ一人でお乳も飲めない上に一年近く歩けないだけでなく、母親まで産後すぐに母性も湧かずポンコツとはいかがなものか。

口をポカンと開けて、瞳孔も開いたままボ~っとしているような状態の母親をそのまま24時間の育児に突入させるとはいかがなものか。

女に試練与えすぎじゃありませんか神様。

 

それはそれとして、そんな状態の私に産科医や助産師はこいつ親として大丈夫かと思ったか、まぁこんなもんだろと思ったかどうかは分からないが、私が息子が3歳近くなるまで育児に苦労したことは間違いない。

 

それからは、夫が後産の胎盤を見て貧血起こして退席したり、スッキリして戻ってきた夫に「お疲れ様」と言って「いやあなたがね」と総ツッコミを食らったりと短い時間で色々とあったが、ようやく痛みから開放されてゆっくりできることになった。

母子同室だが、一日目は息子は病院で管理されるので完全に解放状態。

 

やれやれと病室に車椅子で病室まで運ばれて、さあ着替えてのんびりしようとしていたら、

「なんか途中で破水してたらしいよ?」と夫。

なんだと……?

それじゃ本当はもっと早い段階で促進剤打ってもらえていたではないか。 

というのも途中、ジョバッという感覚があったのだ。

しかしなんせ経験がないもんで、痛みが来た瞬間につい力んだ拍子のことでおもらしだと思ってしまって強気に出れなかった。

それでも一応、どっちか分かんないから確認してくれと助産師さんにお願いはした。

したものの、助産師さんは内診をしてそのまま何も言わず退席した。

今あの瞬間にタイムスリップできたなら、もっと強く出て必死のアピールに打って出るだろう。

それですぐ促進剤を打ってもらえるとは限らんが、14時間の苦しみが少しでも短くなるなら頑張ると思う。

 

並々ならぬ怒りを抱えていたが、壮絶な長い夜を過ごしたため、ようやく眠れるという安堵の方が買っていた。

私の場合、のんびりする=ごろ寝でスマホで、ポチポチやってるうちに眠気もやってくるのだが、この時ばかりはどうしたことか一向に眠くならない。

子供を預かって貰ってるのに全くといっていいほど眠れない。明日には母子同室だというのに全然眠れない。

何やってたのかは全く覚えていない。ただ浮ついていたことは確かだ。

産後すぐ出てきた飯が死ぬほど質素少なくて、泣き笑いしながら写真に撮ってひもじい思いをしながら食ったことも確かだ。

 

その後は持病もあって、助産師さんの計らいで最終日まで預かってもらったにも関わらず、日中そこそこ苦労したり、合わない助産師に失礼なことを言われて泣いたり色々あったが、母子ともに健康に退院となった。

 

 

以上、2014年の大晦日を病室で過ごし、豪雪の元旦の午前中に追い出されたお産の思い出でした。

 

ちなみに、大きな病院だったこともあってか助産師から産前にあまり指導してもらえず、お産も産後すぐも不安だらけでした。

(お産中の希望やカンガルーケアの希望などその他入院関係の書類一式を持ってきているのに、出すタイミングが分からないまま聞いても貰えずお産を終えるなど)

大きな病院でお産の予定がある方は、助産師をひっ捕まえてでも質問攻めにした方が良いです。

 

生まれ変わったら大学病院なんかで絶対産まねぇ。