いくらコンテナ

小学生のASD(知的の遅れなし)の息子とADHD母との備忘録。怒らない育児に忍耐を強いられるものの、度々決壊してはホワホワ無害系の息子に絆されて怒る気を失くす毎日を綴ります。

生まれたばかりの息子に抱いた違和感と恐怖

説明できない不安と焦燥感

 私が息子を産んだのは、クリスマスを過ぎて数日経った年の瀬のことだった。

 母子同室にも関わらず、夜間子供を預け、病室のベッドで一人泣く年末年始を過ごしたことをよく覚えている。

 本来ならば、母子同室なら子供を夜間預けず、自分で面倒を見るべきで、それが無理でもせめて気持ちだけでも我が子が生まれた喜びを噛み締めるべき時だ。

 無論、私としてもそのようにするつもりではいたのだが、実際はというと、居ても立っても居られないような焦燥感に駆られ、『明日からどうしていけば良いのだろう』と次から次に湧き上がる漠然とした不安を頭の中で整理できずにいた。

 とてもじゃないが、まともに子供の世話ができるような精神状態ではない。

 年末ということもあり、何日かは仕事が休みの夫が日中に来て子供のお世話をしてくれたが(我が子に対して『してくれた』は適切ではないが)、不安や焦燥感は解消されず、むしろ余計に気持ちを沈ませた。

 正体不明の心のざわつきに怯え、何が怖いのかも分からなかった当時を思い返すと、いまだにそのどこかに逃げ出したい気持ちがフラッシュバックして、鳩尾がモヤモヤして喉が締め付けられるように息苦しくなる。

 

育児休暇を取る父親像

 病院で甲斐甲斐しく子供のお世話をしてくれた夫は、私が1週間ほどで退院すると、出先から帰宅するなり、表情一つ変えず言い放った。

「結構外に響いてるから子供を泣かせないで」

 子供は泣くものという概念を持っていたので、夫のこの一言にはまるで頭を撞木で打たれたかのようにショックを受けた。

 それから5ヶ月もの間、育児休暇を取った夫は育児の主導権を握り続けた。

 産後無理をしたせいか、息子が生後3ヶ月ほどになった頃に原因不明の全身の関節痛とバネ指の痛みに襲われたが、それでも特に生活は変わらなかった。

 当時の記憶はあやふやで、何をどう思ったなどの感情はほとんど覚えていないが、産休の明ける夫が「俺のパラダイスが終わってしまう」と口にした時だけは絶望したことをよく覚えている。

 私にとっては5ヶ月間が地獄で、これから先は仕事という逃げ場を持ったパートナーが、癒しを求めて帰宅する日々がやって来るのだ。

 私は、出口の見えないトンネルに迷い込んでしまった。

 

第6感

 あれから6年。

 おそらく私は、あの時『この子は何かがおかしい』と直感で感じ取って、これからやって来る未来に強い不安を覚えたのだろう。

 6年も経った今になってそのように思うのは、息子が検査を受けて診断名が出たからではない。

 息子を産んですぐ、まだ入院して病院にいる内から〈自閉症〉というキーワードで検索を続けていたからだ。

 退院してしばらく経った頃に、勇気を出して夫に「この子、ちょっとおかしいと思う」と訴えかけたのだが、大丈夫と返ってきた以外は、いつ頃だったのかも、それから何を話したかも記憶にない。

 だけど、それから幾度となく息子への違和感について訴えかけたこと、根拠のない理由で聞く耳を持って貰えなかったことは、嫌でも思い出すし、おそらく一生忘れないだろう。

 劣等感から来る悩みは大丈夫で方が付くかもしれないが、実際に目で見た事実に基づいて抱いた疑問は大丈夫では答えにならないのだ。

 

子供の身の回りことだけをする育児

 話は戻るが、私が出産した当時イクメンという言葉が流行っていた。

 夫はというと、私が洗濯物を干していて息子が泣けば、夫がすぐに抱いて泣き止ませ、私が洗い物をしていれば、夫が抱いて泣き止ませる。

 外出すれば、夫がベビーカーを押し、エルゴで息子を抱いて歩き、息子が腹を空かせればミルクを与える。

 外堀にいる他所様から見れば、率先して子育てに参加する立派な〈イクメン〉というやつだ。

 家に帰れば家事や名前のない雑務は全て私がやっているのだが、他所様からしてみれば見えない部分はどうでも良いし、パートナーである夫にとってもどうでも良いもので、息子の発達を含めて細かいところを気にしているのは私だけ。

 私がイクメンという言葉を忌み嫌うのは、ここからである。

 

見ようとしない親

・足をバタバタしながらミルクを飲む

・抱くと仰け反るのでエルゴが手放せない

・つかまり立ちを始めるのが早い

・目が合わない

・後追いしないわけではないが、親への関心が薄い

 夫が育休中の5ヶ月間、ザッと挙げただけでも息子はこれだけの行動特性があった。

 今思えばだが、我が子をよく観察して、他所の子を観察して比較していたら、これらのことは気になって当然のことである。

 比較して気になったところがあれば調べたり、育児経験者から話を聞いて、多少なり疑問視した部分をよくよく観察して答を求めて右往左往するはずだ。

 それで更に悩んで頭を抱えたり、安堵したりを繰り返しているのが世のお母さん達で、そのために育児相談の窓口があるわけだ。

 であるにも関わらず、私が抱いた違和感を確かめようともせず、夫がただの劣等感だと判断したのは、実際には夫が息子の観察をしていなかったからだろう。

 生まれたばかりの息子の世話こそしたが、ベビーカーは対面ではないし、エルゴで抱いて歩けば目線は進行方向を向いているし、ミルクを与えている間はスマホでゲームをしていた。

 息子と向かい合って観察しているつもりで、実際には同じ部屋にいて事務処理していただけだとしたら、息子と夫を客観的に見れていたのは私だけということになる。

 子供をまともに観察しているのは私だけで、悩んでいるのも私だけ、育児をしながら家事や雑務をこなし、これから夫が仕事に復帰すれば、1日を終えた安堵感いっぱいに帰宅するのだ。

 当時の不安は予感ではなく、私は確実にやってくる未来を予期して不安を感じていたのだろう。

 言うまでもないが、夫が育休を明けてからの生活は地獄だった。

 

仕事が逃げ場になる

 父親であるにも関わらず、我が子の話に聞く耳を持たない人間がどうなるかというと、外に目を向けてしまう。

 夫の場合は仕事だった。

 夫は仕事から帰ってくると、楽しそうに毎日ああでもないこうでもないと仕事の話をし、布団に横になっては愚痴をこぼし、私にマッサージをするようにねだった。

 当時は、よほど疲れているのだろうと労ったが、息子がASDと診断されてようやく、夫が自分の感情を言語化できない人なのだと気付いた。

 時にはそれが1時間にも及ぶこともあったが、それでも苦に感じなかったのは、比較ならないほど育児が辛かったのかもしれない。

 マッサージと寝る前のお話を子守唄に、夫は寝落ちする。

 密室育児をして、ようやく帰ってきた夫は仕事の話。

 息子と夫が寝静まった真っ暗な部屋は、睡眠よりも冷静に考える集中力を高め、ぶり返した不安や違和感や、劣等感を鎮めるための情報収集に使われた。

 まさか夫も自分が仕事で評価され、同僚や部下から慕われるのが羨ましくて、嫁が劣等感を抱くようになるとは想像もしなかっただろう。

 その点については申し訳なく思う。

 

的中

 一歳を過ぎても喃語ばかりで発語がほとんどなく、目が合いにくい。

 親の存在こそ気にするものの執着がない。

 要求も指差しでしない。

 なのに複雑な道順などを覚える記憶力は良い——。

 発達の遅れや特性由来の違和感は、発達が追いついては遅れ、おかしな挙動が消えては戻り、できることが増えてはできないことが増え、私を苦しめた。

 苦しみながらでも、どうにかやり過ごしてやって来たけれど、やっぱり一歳半検診で発語と指差し、手繋ぎができないことが引っ掛かり、悲しみと絶望感で打ちひしがれた。

 それと同時に予期していた心配事が予定通りにやって来たことで、『やっぱりか』とこれからのことに覚悟を決めなければならなかった。

 認めたくない気持ちと、絶対そうに違いないという確信とでないまぜにになり、とうとう私はノイローゼになった。

 それでも育児から、我が子からは、逃げられないのだから、あの時は私なりに頑張ってやってきたように思う。

 

根拠なき『大丈夫』は、責任を取ろうとしない人間の専売特許

 夫に訴えても、返ってくるのは『大丈夫』『考えすぎ』という言葉だけ。

 何が大丈夫なのか、現状とこれから先の未来を考えているのか、大丈夫と言う根拠は何なのか、こちらが聞く前に会話を終わらせる。

 しかし、救いがないわけではなかった。

 息子は記憶力と空間認識能力が高く、偏りこそあるが賢いのだ。

 ——こんなに賢いのに何で検診で見てくれないの?

 ——こんなに賢いから夫は息子のおかしなところを見ようとしないの?

 救いがあるからこそ、屈辱感と怒りで腑が煮え繰り返って、数日間泣いて過ごした。

 しばらく泣いて、我に返った。

 ——こんなに賢いんだから、指摘されたことも頑張ったらできるようになるんじゃない?

 気付いてからの私は、日頃の腰の重さからは考えられないほどの早さで行動を起こした。

 息子のためというより、自分の劣等感に火が付いて『打ち勝ちたい』と思ったのが正解だろう。

 もしかしたら、私の中の満たされない承認欲求からだったのかもしれない。

 それでも息子に関わることで感じた屈辱感は、私自身のことだけに感じた屈辱感よりも気持ちを強く突き動かせたのだから、ダメな私でも親として責務を果たしていると感じた。

 

いざ行動

 まず、ベビーカーを使うのを止めた。

 ベビーカーに乗せて移動している限り、息子の様子をまともに見れなくなるからだ。

 エルゴも自分のリュックに入れておいて、寝た時だけに使った。

 手を繋げないのならと、ハーネス付きのリュックを息子に背負わせ、息子のハーネスを自分のボトムスのベルトフープに通し、手が離れても自分から離れないように固定。

 息子が何をしてもすぐに反応できるよう、サイドにポケットのあるリュック背負い、片方にスマホ、もう片方に水、ウエストポーチにお財布と手口拭きと消毒用アルコールを入れて斜め掛けして、ハンカチはズボンのポケットに入れる。

 その状態で公共機関を利用して、玩具屋さんを始め様々な施設に遊びに行き、そこではハーネスを外して呼ばれたら止まる練習をした。

 近所の公園は、他の子と比較してしまうから足が遠のいたけど、それでも十分私達親子には良い気分転換を兼ねたトレーニングになった。

 後からになって分かることだけど、自閉度の低い息子は賢いことも相まってできないことをカバーできてしまい、福祉の相談機関や小児科医のチェックを掻い潜ってしまう結果となって、毎回親が指摘される度に苦しむことになる。

(……のだが、今となっては笑い話。でも入園進級入学と新年度になる度にやって来るので、毎年春はしんどい思いをしている)

 

任意相談

 トレーニングの甲斐があったのか、1歳半検診から半年後の児童心理士のチェックは経過観察ということになった。

 「遅れはあるが、本人なりに頑張っている」

 言葉は柔らかいが、要観察であることは変わらない。

 こちらとしては早く答が欲しいのにも関わらず、親として2年息子を見てきて『おかしい』と感じるにも関わらず、どっちともつかないことを言われて様子を見ておけと言われるのだ。

 なんと酷なことだろう。

 苦労してトレーニングを行っても、生活の中で息子に対してしっくりこないような引っ掛かりを拭うことはできず、不安は強まる一方なのに、それをただただ観察しておけと言うのか。

「お母さんは専門機関を受診したいかもしれないが、息子君の様子を見る限りでは検査を受けることはできない」

「受診するにしても、歳が上の子の方が優先だから早くて半年先になる」

 食い下がって不安を訴えかけても、このように返ってくるのだから、目の前が真っ暗になったような気持ちに襲われた。

 

経過観察は『問題ない』という回答ではない

 児童心理士から得た回答を聞いて夫は言う。

「だから大丈夫だって言ってるじゃん」

 問題がないとは言われていないけれど、彼はそのように受け取ったらしい。

 モヤモヤする気持ちを抑えて洗い物をする私の背後で、ひっくり返ったプラレールの車輪が空回りする。

 プラレールを指差し、息子に向かって「止めて」と呼びかけても、顔をキョトンさせたかと思ったらまた遊びを再開する。

 仕上げ磨きをすれば、何度教えても思いっきり指を噛む。

 公園で遊ばせれば、あちこちに関心が移って落ち着かない。

——2歳も過ぎたというのに。やっぱり息子はおかしいのでは。

 加速し続ける違和感でどんどん追い詰められた。

 いよいよ追い詰められて育児相談に電話すれば、

『お母さん疲れてるのよ』

『息抜きをしなさい』

 福祉で子供の様子を見て貰えば、

『経過を見ましょう』

 今の気持ちを誤魔化すことは教えてくれても、今感じる気持ちの答えを出すことを、誰も助けてくれない。

 どう考えたって偏ってておかしいのに、誰も彼もが聞き流す。

 どうして、発達検査を受けさせてくれないのか。

 

ようやくたどり着いた答

 ここまでの時期は、1歳〜入園した4歳あたりまでのこと。

 ここから入園して保育士の先生から指摘が入り続けたこと、他所の子のとの差を直視したこともあり、息子は発達障害児に違いないだろうと確信を持つことになる。

 それから年中になって、ようやく5歳児発達相談で会話の上滑りを指摘されるのだが、そこでも専門機関を紹介されなかったので、この時点ではグレー児扱いだったのだろう。

 いよいよブチギレた私は、直接専門機関へ電話した。

 なんのことはない。紹介状がないので半年先ではあったが、いとも簡単に発達検査と受診の予約をすることができた。

 結果は、知的な遅れのない自閉度の低いASD、所謂アスペルガーだった。

 産後すぐから検索し続けたキーワード〈自閉症

 私の直感や違和感は正しかったのだ。

 

失ったもの、得られた宝物

 二人で育児をしていたはずが、いつの間にか私は一人で、子供を相手に怒鳴りつける私を見て、育児から目を背けてしまうほど夫も孤独だったのだろう。

「お前が怒鳴っているのを見ると胃が痛くなる」

 夫が身を切るような思いで放っただろう一言は、私の胸を深く抉った。

 毎日が辛くて、屈辱感に押し潰されそうな日々の中で、私の心の支えは育児相談と夫だけだった。

 育児に追い詰められ、夫に愚痴をこぼし軽くあしらわれた翌日は育児相談に電話をし、育児相談で気持ちが晴れなければまた夫に愚痴をこぼし、晴れない心のまま育児をしてはまた追い詰められる。

 夫としても辛いだろう。

 彼からすれば、〈仕事で疲れて帰宅すれば、毎日毎日愚痴をこぼしては子供にヒステリーを起こす同居人〉なのだから。

 当時、息子2歳。

 離婚を突きつけられた時は、さすがに泣いたし、気持ちを整理するために育児日記とは別に何冊も日記を書いた。

 年中で受けた検査で息子にASDの診断が下りてようやく和解したが、翌年には離婚した。

「あなたのおかげで良い子に育ってる」

 離婚して元が付いた夫からそんなメッセージを受け取る頃には、息子はポジティブで親に愛されている自信に満ち溢れた子になっていた。

 これは私の努力によるものではなくて、息子の持ち合わせた性格によるものだと思う。

 ここに至るまで嬉しいことよりも辛いことの方が多かったけど、今となっては息子を育てるのを楽しいと感じる。

 

欠けたピース

 今思えばだが、親になった当時の私達にはたくさんの物が欠けていたように思う。

 それと、不安があっても立ち向かえるほどのバックボーンがなかったことも、より不安を掻き立てた原因だったのだろう。

 例えば、両親になる覚悟だとか、金銭的精神的な余裕だとか、親族からのサポートだとか。

 そういうものが一切合切欠けていた。

 それが原因で育児が辛い時もたくさんあったけれど、日々の生活の中で補えるものはたくさんあったし、成り代わるものもたくさんあって、どうにかできた。

 でもダメだった。

 私達には、一番大切なはずの〈パートナーを理解していこうとする前向きな気持ち〉が欠けていたのだ。

 私と彼に欠けていたピースは、途中で失ったのか、それとも最初から持っていなかったは分からない。

 欠けたピースをこれから見つけることはできないし、どこかで見つけたとしても私達には合わないだろう。

 私と息子は、息子が生まれたその日からいくつものピースを集めて、新しいパズルを作り続けている。

 ピースを集める道には、夫も、パパもいない。

 寂しくも感じるけれど、補えるものはたくさんある。

 今までもそうしてやってきたし、これからもそのようにやっていく。

 楽しいことばかりではないけれど、最後は笑顔で終わることのできるパズルをたくさん作るつもりだ。